シカが日本の森林を破壊している。と聞くと、どうして森林の構成員であるシカが?と思われる方も多いかもしれません。しかし、今、日本の森林は、シカによって存続の危機にさらされているといっても過言ではない状況といえます。今回は、そんなシカと日本の森林についてのお話です。
皆さんは、森林の情景とはどのようなものをイメージするでしょうか。
このような森林でしょうか。
それとも、
このような森林でしょうか。
上の森林は青森にある森林、下の森林は京都にある森林です。この二つの森林の最も特徴的な差は、言うまでもなく、地面が緑なのか、茶色なのかです。実際に森林内を歩けば、明らかに様相が異なることが感じられます。しかし、20~30年前には、下の写真の京都の森林も、上の青森の森林のように下層植生の豊かな緑の森林だったのです。最近ハイキングを始めた人と昔ハイキングをしていた人とでは、想像する森林が異なっているかもしれません。
森林の林床に変化をもたらしたのが、ニホンジカCervus nipponです。
ニホンジカ(以下、シカ)は、日本に在来で生息する唯一のシカ科の動物です。シカは、1970年代頃から急激に増え始め、分布域も、拡大し続けています。個体数を増やしたシカが、片っ端から森林の口の届くところにある葉っぱを食べ続けた結果が、下の写真のような状態の森林なのです。もちろん、この森林には、シカが食べることが出来ない植物も存在するのですが、ごく少数の種類しかなく、森林のほとんどの部分の地面がむき出しになるか、1種か2種の植物種で覆われるという異様な光景が広がっています。また、シカの個体数が多い地域では、シカの食べ物が枯渇してくるに従い、それまであまり好んで食べていなかった植物まで食べるというシカの行動の変化まで観察されるようになりました。下層植生が無くなることで、ウグイスなどの鳥の営巣場所が無くなる、花の蜜を吸う蜂や蝶の餌場がなくなるなど、森林に住む動物にも影響が出ると考えられます。すでに、下層植生が衰退した森林で以前より春に鳥のさえずりが減ったと感じている人もいます。まさに「沈黙の春」がシカによって引き起こされているのです。レイチェル・カーソンも想像できなかったことでしょう。
シカの採食による森林への影響は、それだけではありません。下層植生がほぼ全く見つからないということは、つまり、樹木の稚樹も育っていないということを意味しています。現在成木となっている樹木がいつか寿命を迎え枯れてしまっても、若い木はどこにも生えていないのです。下層植生の無い森林は、いわば、未来の無い森林なのです。更新が上手く行われていない森林が、この先どうなっていくのか。それは、生態学者でさえ知りません。というのは、この下層植生の衰退は、これまで記録されたことの無い強度と規模で起こっている現象だからです。少なくとも、下層植生の衰退した森林で、多くの植物種がすでに個体数を激減させているのは確かです。一度下層植生が少なくなってしまった森林は、たとえシカが減少しても少数のシカだけで、新たに芽吹いた実生の大部分を食べきってしまうため、シカが少ないのに下層植生も貧弱なままである奇妙な状態になっています。
日本中で、今まで多くの生物を育んでいた豊かな森林が、シカというたった一種の構成員によって、その包容力を失いつつあるのです。この問題は直接人の活動によって起こっているようには見えない現象のため、環境問題として取り上げられることは少ないですが、やはり人間活動に起因していると考えられています。自然に起こったことだから大丈夫、と安心して放置していると日本の生物多様性の著しい衰退を招く可能性があります。次回は、シカの増加の原因についてお話したいと思います。