京阪神の自然を歩こう!JR西日本「三都をめぐる サマーキャンペーン」

2020年8月11日 ALLイベント
Photo by 佐野宇久井 / CC BY-SA

三都の成立と自然の関係

京阪神は近畿地方の主要都市である京都、大阪、神戸をまとめた名称です。京阪神では古墳時代(3世紀頃)から大規模な都市の建造が行われ、今でも2000万人近い人が居住する人口密集地です。京阪神の自然史は古代から続く人間の活動抜きでは考えることができません。今回は、京都、大阪、神戸の人々の暮らしが自然に与えてきた影響と特色を考えていきましょう。

大阪が水の都と呼ばれるワケ

京阪神随一の大都市 大阪。その中心部の都市面積のうち10%が実は川や水路で占められています。この水のネットワークは奈良・平安時代には朝廷への海の玄関口として活用され、江戸・明治時代には水運を利用した交易拠点として栄え、現在の経済基盤を築きました。

大阪の成立には有史以前から水が深く関わっています。2万年程前の近畿地方は現在より寒冷で、海抜は100mほど低かったと言われています。そのため、大阪の平野部は現在の淡路島まで続く盆地(古大阪平野)で、旧石器時代の人々が狩猟採集生活を営んでいました。時がたち、縄文時代(約6500年前)になると気温が高くなり海面が上昇し、現在の生駒山のふもとまで湾が侵入してきます。その後、淀川が運ぶ土砂が徐々に堆積して湾は淡水湖となり、5世紀以降の干拓によって現在の大阪平野が成立しました。大阪の人も生物も、海面の変動に合わせて住む場所を変えてきたのです。

Photo by Terra Prints Inc. / CC BY-SAを改変

こうした気候や地形の変化が大阪の生物相を形作ってきました。それぞれの時代を特徴づける生物は大阪の各地に少しずつ生き残っています。例えば、高槻市の北に位置する本山寺周辺で見られるモミ・ツガ林は完新世以降続くと考えられています。また、京阪神の境にある妙見山のブナ林は氷河期(約1万年前)の姿を残していると言われています。一般的に本州のブナ林は標高1000~1500mに成立しますが、妙見山の標高660mと高くありません。これは森林が成立したころの大阪周辺の気温が今より低かったことに起因すると考えられます。

妙見山 Photo by I, KENPEI / CC BY-SA

大阪平野はそのほとんどが埋立地であるため、天然の海岸線はほとんどなく、市街地にも純粋な自然はほとんどありません。しかし、生き物がいないというわけではなく、都市に適応した生き物たちが暮らしています。例えば、まさに今、暑い夏にシャンシャンと大声で鳴くクマゼミは、奥山の暗い森よりも市街地の開けた街路樹や公園を好むため市街地で多く見られます。また、寺社、古墳、公園などでは小規模ながら本来の自然林が残っているところもあり、多様な生き物が暮らしています。

京都の文化を支えるアカマツ林

794年の平安京成立以来1000年以上の間、日本の首都であり続けた京都。町は京都盆地と呼ばれる周囲が山に囲まれた地形を利用して作られています。都の造成や人々の生活にとって、周辺の山々で採れる木材・食材などは欠かせないものでした。

平安京遷都以前の京都盆地周辺には照葉樹林が広がっていましたが、都の建築に必要なスギ・ヒノキなどが伐採され、常緑樹も薪などに利用されることで数を減らしました。代わりに成立したのが、アカマツや落葉樹を中心とした森林です。アカマツはパイオニアと呼ばれる荒地に育つ植物の一つで、継続的に人が利用するいわゆる“里山” の代表種です。

以降、明治時代までアカマツ林は続き、アカマツは京都の文化形成と密接に関わっていきます。例えば、大文字で有名な五山の送り火の薪、祇園祭の山に立てられる真松、伝統工芸清水焼で用いる窯焚きの燃料、茶室の柱、庭園への植樹など挙げればキリがありません。

大文字の送り火 Photo by 佐野宇久井 / CC BY-SAを改変

明治時代、政府は防災を目的とした禁伐令を出します。さらに主要エネルギーが薪から化石燃料へ変化したため、里山は少しずつ利用されなくなりました。アカマツ林は人の手によって森が攪乱されることで維持されていたので、これ以降、京都の森林の景観は変化していきます。さらに、昭和から平成にかけて「マツ枯れ」と呼ばれる害虫被害により大量のアカマツが枯死し、シイ・カシ林への遷移が急速に進みました。

現在では、カシノナガキクイムシによる「ナラ枯れ」でシイ・カシが枯死したり、シカの食害が増加するなど、新たな問題が生じています。こうした事態を受け、地元行政や有志団体は健全な森林を取り戻すため、適度な間伐や植栽を行っています。

大文字山(如意ヶ嶽)の山頂より。シイ・カシ林にアカマツが点在する。Photo by HmanJp / CC0 を改変

六甲山、禿山からの復活

神戸の風景というと神戸港とそれを見下ろす六甲山を思い浮かべるでしょう。六甲山は100万年前までは小さな丘でしたが、東西からの圧力による地形変化(六甲変動)によって現在の姿になりました。かつては古代大阪と同じく寒冷な気候でモミ・ツガ林などが生育していましたが、気候の温暖化にともない縄文時代(約5000年前)には現在まで続くブナ・ミズナラ林、モミ・コナラなどの針広混交林、シイ・カシ類の常緑広葉樹林などが形成されました。

奈良時代の荘園開墾、平安時代の福原京造成、源平合戦などで六甲山の森林への利用圧は高まっていきました。豊臣秀吉が1583年に六甲山周辺の森林の入会権を認めたことで伐採が加速し、森林は急速に荒廃しました。この結果、江戸時代以降の六甲山では土砂災害などが頻発し、禿山が目立つ風景となってしまいます。1951年の兵庫県林業要覧には、全森林面積に占める荒廃率は20%以上にもなり全国最悪であったと記されています。

六甲山の荒廃した森林がなかなか回復しないのには地質的な要因もあります。神戸の街から六甲山にかけての大部分の地質は花崗岩類を基盤岩類とします。六甲変動によって細かくなった花崗岩類は風化し、マサ土と呼ばれる土が表層を覆っています。このマサ土は水分の保持能力が低く、栄養が溶脱しやすい特徴があります。さらに、このマサ土の層が非常に薄いため、植物の根が張りにくいと考えられています。

観光名所の風吹岩は花崗岩が露出した場所。周りにはマサ土が広がる。 Photo by KENPEI / CC BY-SA

明治時代以降、頻発する災害を防ぐために六甲山の森林再生が進められてきました。明治30年には砂防事業がスタートし、マツ、ヤシャブシ、スギ、ヒノキなどの大規模植栽が行われました。この結果、山の緑は徐々に回復した一方、六甲山の植生は植林された樹種が各地に生育し、天然林は限られた場所に僅かに残るだけになってしまいました。さらに、ヤシャブシの花粉アレルギーが発生したり、植栽林の下層植生が発達しないなど、様々な問題も生じています。

現在進められている「六甲山系グリーンベルト整備事業」では、六甲山の植生史を鑑みて適切な樹種を選定することで、防災・景観両方で良好な森林を目指しています。地球温暖化による気温上昇や豪雨災害の増加などが問題になる中、どのような森林造りを行うのか注目されています。

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京都、大阪、神戸。近畿を代表する大都市の背景にはそれぞれ異なる自然との歴史があります。そしてその歴史は今もなお続いており、私たちは自然を観察することで未来の自然との付き合い方を考えることができます。ぜひ、京阪神それぞれの自然を歩いてみてください。

JR西日本は京阪神の魅力をめぐるサマーキャンペーンを実施中です。三都それぞれの歴史文化施設や観光スポットをめぐり、スタンプを集めると、抽選で最大5万ポイントのICOCAポイントが当たります。夏休みのお出かけの際には、ぜひご利用ください!

【参考文献】
・水都大阪, 水都大阪の歴史, <リンク>
・小椋 純一, 明治中期における京都府南部の里山の植生景観, <リンク>
・富田 昇, 2009, 身近な自然環境・里山との付き合い方, 静岡大学生涯学習教育研究センター
・社団法人土地防災研究所, 2006, 六甲山の緑の歴史, <リンク>
・六甲砂防, 六甲山のおいたち
・神戸市, 神戸の地形・地質, <リンク>